Yagishita's Web site Flowers & Walking
PART1
 
              
 
名所・旧跡を訪ねる         
 
           
 
 
 
歴史散策 太平記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

護良親王の墓

大塔宮護良親王は、後醍醐天皇の第三皇子ですが、後嵯峨院以来の慣例によって立太子の選からはずされました。若くして三千院(梶井門跡)に入室し、尊雲法親王と称し、のちに門跡をつぎました。その後天台座主になり、大塔宮と号されました。1330年(元徳2年)、後醍醐天皇は北条氏討伐を語るため南都北嶺に行幸し、延暦寺の大講堂で供養を行いました。このとき呪願文を読んだのが尊雲法親王でした。親王は、天台座主でありながら武道の鍛錬のみに励んでいました。(太平記第二巻 石清水ならびに南都北嶺行幸の事)
元弘の変が起こると、還俗して護良親王と改名し、後醍醐天皇を援けて吉野・熊野などで戦い討幕運動の中心として活躍しました。(太平記巻第五 大塔宮南都御隠居後十津川御栖ひの事)
全国に倒幕の令旨を発し、全国的な倒幕勢力の組織化に大きな役割を果たしました。鎌倉幕府は滅亡し、護良親王は1333年(元弘3年)に兵部郷・征夷大将軍となり、軍勢を率いて入洛しました。(太平記巻第十二 大塔宮信貴より入洛の事)
足利尊氏との対立を深め勅勘を蒙り、1334年(建武元年)関東に下されました。鎌倉では足利直義のもと、東光寺に幽閉されました。(太平記巻第十二 兵部郷宮御消息の事)
1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が鎌倉に乱入する中先代の乱が起こり、直義は支えられずに遁走するとき、淵辺義博に命じ護良親王を殺させました。その時、親王の目がまるで生きているように見え、主君には見せないほうがいいと言って、首をその辺の藪に投げ捨てました。これを聞いた理致光院(理智光寺)の老僧が自分の寺へ埋葬しました。(太平記巻第十三 相模二郎謀反の事・兵部郷親王を失ひ奉る事)
護良親王の墓は、二階堂理智光寺谷にあり、宮内庁が管理しています。急な石段を登った山頂に、石垣で囲まれた中に宝篋印塔があります。

 
護良親王の墓

 
 
Copyright (C) 1998-2009 Yagishita. All Rights Reserved.