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古代都市ポンペイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



ポンペイ遺跡

ポンペイは、イタリア先住民族のオスキ人によって集落が形成され、紀元前7世紀にはサルノ川の河口付近の丘に集落がありました。その後、紀元前6世紀には制海権の拡張をもくろむギリシャ人とエトルリア人による支配を交互に受けました。紀元前5世紀後半から古イタリア民族のサムニウム人に征服されました。ポンペイは、紀元前4世紀の間に拡張され、町並みが大きく変わりました。サムニウム人の貴族階級は、ギリシャ文化と美術に傾倒し、町が次第にギリシャ化し公共構造物や個人住宅にもヘレニズム的な要素が採り入れられました。ポンペイ遺跡の原型はこの時代のものです。
紀元前1世紀初め、カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わりました。しかし、紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服され、ポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となりました。ポンペイは急速にローマ化し、ローマの言語、政治組織、文化、風習が町中に広まりました。円形闘技場、音楽堂、浴場施設が建設され、ジュピター神殿も再整備され、ローマ都市としての外観を備えました。
紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲い、大きな被害を受けましたが、町はすぐに以前より立派に再建された。そして紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、噴出物により4日間で完全に埋没しました。1世紀のポンペイには、約2万人(1万2千人の自由市民と8千人の奴隷)が住んでいました。
ポンペイ遺跡は、1594〜1600年に建築家ドメニコ・フォンターナがサルノ川支流にある運河の発掘を行った際に、偶然に発見された。この発見では、遺跡の重要性が明らかにされないで、18世紀半ばに遺跡の発掘が本格的に行われることになりました。そして、厳格な発掘が行われるようになったのは、20世紀になってからでした。
約1時間の短い遺跡見学でしたが、古代の人たちの生活や文化に触れることができました。生活レベルの高さと文化の素晴らしさに感激しました。

 
 
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